『ハンサード』コッズウォルズでの不気味な平穏

時代設定は1988年。サッチャー政権下の英国。

保守党議員の夫(ロビン)と、”左寄り”の妻(ダイアナ)は、週末のコッズウォルズの自宅で、互いの政治的な立場の違いによって罵り合い、心理戦がはじまっていく。ロビンは所謂イギリスのエリートコースを堅実に進み、不自由なく過ごしてきた上流育ち。対してダイアナはロビンとはかけ離れた育ちで、今は酒におぼれている。そんな彼らは、きつねのせいで庭が荒らされると夫が嘆くと、妻は同情するとみせかけ、庭ではなく国が荒んでいると論点をすり替える。こうして、身近な話題から政治スタンスの違いを罵倒する…だけに留まらず互いの性格をあげつらう。この堂々巡りが60分間とめどなく続いていく。

空虚な舌戦が無限にループしているように思われるけれども、そうではない。水曜日、ダイアナはロビンに合うためにロンドンの事務所に向かう。しかし、彼はいない(浮気しているのか?とミスリーディングを誘う)また、普段は会話に上らないであろう夫のラジオ討論会を、金曜日、妻がリアルタイムで聴いたという。その討論会のテーマは、「セクション28」について。保守党にいれば、いわんや青少年の男に同性愛を助長しないのは当然だという強固な姿勢にダイアナはかみつく。このような舌戦の中で少しずつ、少しずつ、彼らの本音が見え隠れする。この本音は彼らが最も向き合うことを拒絶する「ある過去」への伏線となっている。最後には向き合わざるをえなくなる。その「告解」のための60分なのかもしれない。

 ラスト20分、哀しみへの歯車が加速する。彼らの息子は数十年前に急死した。死因も公表しなかった。だが、夫婦にはわかっていた。息子がホモセクシャルということを。息子のトムは自分がゲイであることに苦しみ、葛藤していたことを。ロビンは水曜日に不倫していたわけではない。息子が急死した湖へ祈りに行っていたのだと初めて口にする。ダイアナは、父親には拒絶された息子が彼女に助けを求めたことを分かっていた。しかし、彼女もまた受け入れることが出来ず、拒絶を露わにした日、息子が急死したことを初めて口にした。

 言いようのない悲しみに二人は嗚咽する。そして、互いを受け入れ始める。

来客があるから着替えるように促されたダイアナはこういう「ファスナーをあげる人がいないからこのままなの」。これまで夫と対話できなかった妻の痛切な思い。

「セクション28」に賛成した理由を聞かれたロビンは「この国は小さな島国だ。変わることを拒む。ここはアメリカではない。イギリスだ。人と違う生き方をすればどんな困難が待ち受けているだろうか」と。保守党としてのロビンと親としてのロビンに葛藤していた。

幕切れ、夫妻は「もし、息子が生きていれば希望があっただろうに」虚しい希望を繰り返す。

 最後に……エドワード・オルビー作『ヴァージニ・ウルフなんかこわくない』のコッズウォルズ版と言っても問題ないくらいオマージュしている。『ハンサード』は若い夫婦が登場しない分、主役の中年夫妻の描写に立体感がでないけれども、3時間ではなく、1時間半に抑えている分、短い時間の中で二人の関係性が鮮烈に炙り出されている。デビュー作のため、確かに、描写の荒い部分や力技で展開させる部分もあるけれども、細部まで冴えわたっている俳優の素晴らしい演技によってそんなことは杞憂に過ぎない。

『イヴの総て』

イヴの総て All about Eve


演劇という芸術は嫉妬や憎悪から生まれてくると思います。ですから、女性同士のヒリヒリとした関係性を描き人間の本性を焙りだす本作品は演劇という芸術表現との相性が良いですし、これを観る分にはとてもスリリングでした。『イヴの総て』は1950年に映画化、この映画に深く感銘を受けた演出家が本作を舞台化させたようです。

舞台
まず、3方向囲まれた部屋の半分より上には映像モニターが取り付けられています。映像を使うと説明的になるので個人的に好きではないですが、本作は場が移動しまくります。従って、違う場を即座に見せるには効率的でした。そして、言葉を尽さず"老い"を痛切にみせるには一番わかりやすい方法でした。
また、映画の台詞の聴かせどころ(例えば、イヴのa little?と続く独白)を異化効果としてみせるのは残念ですが、70年前の遠い話ではなく実は身近な話ということを比喩していたのかもしれません。
ビルに勘当される場面。黙って孤独に向き合い、徐々に移り変るマーゴの表情、特に目が素晴らしかったです。ホント素晴らしかった。小津安二郎東京物語』での原節子が涙を目にためるカットのごとく美しかった。NTLだからこそ味わえるカット。ありがとうございます。
最後の場面でイヴがアディソンに赤いドレスを着せられたのは、演劇界の洗礼を受ける儀式のようなもので清濁呑みこみ生きていく彼女の執念を感じました。

男たるもの強くあれ、村社会の生きづらさ。『ユタと不思議な仲間たち』

はじめ

 『ユタと不思議な仲間たち』のDVDをみました。泣き虫ユタが座敷わらしとの交流を通じて精神的肉体的に強くなっていく成長譚です。何よりも音楽が素晴らしい。童謡のような懐かしい調べから和楽器を用いたロック、ブルース調、演歌調まで多様な音楽で劇世界を構成しています。ロックやブルースの音楽は一見すると和ものの題材に合わないように思われますが、座敷わらしたちの世界や勢い漲る若者の姿、彼らの疾走感と見事にマッチしていました。特に、ケンカの場面は『ウエストサイド物語』の《クール》を想起させるような踊りと音楽が一体となる秀逸な場面です。ユタの率直な台詞、座敷わらしたちの叱咤激励に心打たれますし、《生きているって素晴らしい》《友達はいいもんだ》等、琴線に触れる曲ばかりで涙が止まりませんが、今回は心を鬼にして批判的に作品を捉えてみたいと思います(笑)仲間を手に入れる過程にではどのような犠牲が払われるのかということに焦点を当てて考察していきます。

 

名前を失うユタ
 まず主人公ユタの本名は勇太です。彼は方言の関係でユタというあだ名で呼ばれますが、あだ名で呼ばれるということは友達との距離が近くなる一種の指標となるでしょう。しかし、勇太自身はユタと呼ばれることを初めは快く感じていません。そもそも、ユタと呼ばれる所以は村の子供たちにからかわれたことに起因します。本名を失うこと、それは彼がこれまで東京で育まれたアイデンティティを失うことになります。

 

男は強く逞しく?
 第2に「男が泣き虫ではダメだ、男は強くなければならない」という意識が村には強く存在します。寅吉じいさんやペドロたちがユタに「村の子供たちと仲良くするためにはケンカで勝たねばならない。いじめられないようにするには強くならねばならない」と説得します。男はこう在るべきという男らしさへの偏見が根強く蔓延る村です。死の対極にある生を求めるためにはもやしっ子ではダメだ。男らしく強く逞しくならねばならないという少々荒い考え方にユタは飲み込まれてしまいます。これに抗う機会や違和感を持つ人はこの村には存在しません。さらに東京出身の勇太は、村或は子どもたちの共同体の外にいるべき人でした。故に彼らの仲間に入るためには紋切型の男らしさを受け入れ、ケンカでガキ大将から勝利をもぎ取ることで初めて仲間に入ることができるのです。いわば、この儀式を通過することで初めて彼らに認められるのです。従って、それら共同体は部外者に個性を捨てさせ、自分たちと同化させることによって部外者を受け入れるというなんとも旧弊な社会ではないでしょうか(時代設定を考慮すれば仕方ないと思います)。村社会の問題の一つは東京と違い多様な人間がいないということです。このことがそこで生きる人々が画一的な考え方に凝り固まってしまう一つの原因があると思われます。ところで、ペドロがこっそり小夜ちゃんにお財布をあげ、村の子どもたちに問い詰められ濡れ衣を着せられました。ユタは女の子が使うようなデザインの財布だから小夜ちゃんにあげたといい彼女を救おうとします。しかし、“女の子が使うような”財布という言い方に違和感を覚えます。

 

"ぼく"から"おれ"へ
 また、ユタは彼らと同じ方言を話すことで仲間意識と引き換えに東京の言葉を失っていきます。加えて、最後の場面でユタの一人称が「ぼく」から「おれ」になりました。「おれ」ということで肉体的に逞しくなったことを示すためなのか、村の子供たちと同じになりたいのか、大変大きな出来事です。一人称を変えることで自分を生まれ変わらせたのです。村の子どもたちはユタが「ぼく」というと都会の洗練された印象を持ち、勇太に近づきにくさを感じたり「おれ」という一人称を使う私たちとは違う存在として距離を置いたりしていました。ユタは自身の気づかないところで自分自身を喪失しました。郷に入れば郷に従えという因習によって個性を失ったユタは村に馴染んでいくのです。ひ弱なもやしっ子でもいいじゃない。運動が得意じゃなくてもいいじゃないか。ひょっとするとユタはインドアの活動の方が能力を発揮するタイプなのかもしれない。ラジコンづくりがとても上手いかもしれない。座敷わらしと話せるのだから好奇心旺盛で勉強が得意かもしれない。このような目に見えない差別が作品には描かれています。何もユタの生きる世界に限ったことではなく、現代の日本社会において男性の間でも起きていることです。

 

まとめー生きていくって素晴らしいー
 問題は、村の人とたちそしてユタ自身がそれらのことに気づいていないということです。確かに、明確な時代は分かりませんが、凡その時代設定や社会状況、そしてユタがこの先も村にいなければならないという状況を考えれば、小さい村において彼が傷つかないように生きていくためには子供たちと仲間になり村に馴染む必要があります。その意味で、座敷わらしたちは社会を賢く生き抜く処世術を教えてくれたのかもしれません。そして、ユタが村の子どもたちに受け入れられた時、ユタは人間界ではない世界との接点が奪われ、座敷わらしたちは去っていきます。
 「ひとりはみんなのためにみんなはひとりのために」という同族意識を育むことで個性と引き換えに仲間を手に入れるのです。生きていくって素晴らしい。

それぞれのエビータ①

 谷原エビータは感情のままに行動しても、可愛さと甘え上手さで階段を駆けあることができ、誰からも好かれる国民の愛娘的存在のエビータ。一方、鳥原エビータは計算尽くの行動をし、美貌と圧倒的オーラで高嶺の花のような存在のエビータでした。そしてより"悪"が滲みでた演技でした。

 谷原エビータは、田舎では粗野でじゃじゃ馬娘でしたが、都会に出たことで純朴さを失い、ギラギラの野心に一層動かされていきます。エビータが《ペロンの野心》の短い挿入歌において胸声の重い声(これ以降)で歌うことによってかつての彼女の面影が無くなったことが分かります。決定的に化けたのです。思わずぞくっとしてしまいました。そして、民衆の、彼女自身の怒りと不満と自信を強靭な歌声によって歌い上げる《ニュー・アルゼンチーナ》で彼女の変貌ぶりと民衆を導くカリスマ性が露わとなります。だからこそ、《ともにいてアルゼンチーナ》で時折みせる純粋さが胸を打つのです。大部分を地声で歌い上げる谷原エビータは新たな四季のエビータ像を築いたといえるでしょう。

 鳥原エビータは中上流階級への反発から生まれる強烈な憎悪と野心が表情に現れ、悪女が押し出されていました。《ブエノスアイレス》を歌う若きエビータの華と輝きから彼女の圧倒的なオーラを感じました。そして《ブエノスアイレス》以降、かつて私生児とは思えないほど上品で洗練されて、衣裳を自在に着こなし、何より所作が美しかったです。病気で弱った後のエバの最後の放送とイリュージョンは女優人生の全てを賭けたような凄みのある演技。一生忘れられないくらい心打たれました。

 

圧倒的迫力のな歌声をきかせる谷原エビータ
圧倒的存在感を放つ鳥原エビータ
どちらも素晴らしいです!!

題名さえつけてもらえない"サリエリ"『アマデウス』

 ナショナルシアターライブのアンコール上演『アマデウス』を観た。映画の印象とはまるで違った。演出はマイケル・ロングハースト。煌びやかな衣装にオーケストラとオペラ歌手の生演奏によって進行していく豪華な舞台であった。また、演奏者(ときに身体表現の演技者)を舞台に配置することで、奥行きのあるOlivier Theatre を存分に使用した舞台空間の使い方も見事であった。特に素晴らしかったのが、交響曲第41番第4楽章の挿入カ所。あの場面でこの曲を挿入したのかと思わず唸るほどよかった。
 『アマデウス』という題名でありながら、この物語の真の主人公は宮廷楽長を務めたサリエリであり、彼の視点からモーツァルトがいかに天才か、そしてモーツァルトにどれほど嫉妬心を燃やしたのかが語られて物語が進行していく。題名までもモーツァルトの陰に隠れてしまうところに劇作家のほくそ笑む姿が思い浮かぶ。サリエリ役のルシアン・ムサマティ、モーツァルト役のアダム・ギレン(少々子供すぎる演技だったが)は歴史上の人物を大理石のように凝り固まった人物とせず、複雑な感情を抱き、血の通った人物として演じていた。もちろん、『アマデウス』がある程度史実に基づいていたとしても、大胆に脚色されているところが気に食わない人もいるだろう。しかし、そもそも演劇は虚構であり、その中から心揺さぶるドラマが生まれる。
 「嫉妬、憎しみ、羨望など極めて人間的な、ある意味で汚らわしい感情で満たされた土壌から生み出される芸術が演劇だ」というような内容をある演出家が述べていた。確かに卑俗的な感情を抱くのが私たち人間である。その感情を想像によって膨らませ弄ばれるのが私たち人間なのである。勿論その肥沃な大地から最上級に美しく純粋で可憐な一輪の花を咲かせる作品もある。しかし、おそらく他の芸術とは異なり美しさだけでは演劇足り得ない。その意味で嫉妬に狂うサリエリは演劇という方法で語らせるのに好都合の人物なのだ。
 天才と直面したとき、自らがなんてちっぽけで取るに足らない人間だと感じることがあるのではないだろうか。なにも、サリエリモーツァルトの関係に限ったことではない。自分と似た分野を学ぶ人、仕事する人、ひょっとすると友人との関係や出会いにおいてかもしれない。圧倒的な才能に(例えば1カ月かけて練習して完成させたピアノ曲をたった3日間で完成させる)自分より...と比較したとき私たちは劣等感を感じてしまう。その時、嫉妬という怪物を心に飼いならしている私たちは、その怪物に飼いならされてしまうのだ。名誉欲にとらわれ、高慢な自尊心によって自我を保とうとするのが平凡な人間なのである。歴史に名を残そうと必死にもがく凡庸な人間の哀れな末路なのかもしれない。しかし、ピーター・シェーファーは決して悲観的に描かない。
 平凡で一般的な人間という鏡を映し出している作品が『アマデウス』なのだ。

『李香蘭』ー祈りの舞台ー

 昨年4月の公演では主演の野村玲子さんが少し悲壮な面持ちで李香蘭を演じ、カーテンコールでは目に涙を浮かべていた。これは最後の機会になるかもしれないと直感的に感じ取ったが、まさか本当に浅利氏の最後の演出になってしまった。残念でならない。そんな昨年の公演を経て再演された浅利慶太追悼公演の李香蘭。その舞台には確かに祈りがあった。

物語の簡単なあらすじと感想
 日本が大陸に進出し太平洋戦争終戦に至るまでの激動の時代に生きた二人のヨシコ。1人は主人公李香蘭山口淑子)。もう1人は少女時代に清国の王族で川島浪速家の養女となり、東洋のマタ・ハリと呼ばれた男装の麗人(川島芳子)。ミュージカルでは狂言回しとして皮肉を交えながら時代や人々の様相を冷めた視線で物語る。2人は2つの祖国を持つというジレンマを抱え、冷たすぎる時代という運命の手に弄ばれたのであった。
 舞台は、上海軍事裁判所で李香蘭が漢奸罪の容疑により糾弾される場面から始まる。その後、彼女の回想部分となる。その時代の事実を基に編年体形式で進行し、李香蘭を含めた各人がそれぞれの思いを歌にのせて語る。暗く殺伐とした内容が続く本作で李香蘭が歌う蘇州夜曲や夜来香の甘く玲瓏たる旋律は心に深く沁みわたる名曲だ。そして再び上海軍事裁判所で漢奸罪の容疑で死刑を求刑される場面に戻る。最終的に李香蘭は漢奸罪の容疑がはれ無罪となる。上海軍事裁判所で糾弾される場面は、目を背けたくなるほど恐ろしさと迫力のある場面であり一気に引き込まれる。憤怒と憎悪の叫びを爆発させて感情のままに演技するのではなく、感情が凝縮された言葉の魂をストレートにぶつけてくるような歌い方や台詞回しによって、濃密で緊迫した舞台が生まれ息をするのさえ難しい。また、感情的に演じれば、自然と子音が強く発音されるが、子音の立ち上がりを統一しながらも、あえて子音を立てすぎないところに怒りを通り越した哀しみに似た感情を垣間見た気がする。

 19世紀末から帝国主義により、欧米は植民地を獲得し自らの国益を繁栄させようとした。ロシアの南下政策とソ連共産主義が日本を含めた東アジアに手を広げようとしていた。そのような状況で1929年世界恐慌がおこり、経済基盤の強い植民地をもつ国はブロック経済をし、経済基盤が弱く資源の乏しいドイツ、イタリアそして日本が一層対外進出をはじめていった。確かに、当時の情勢を考慮すればやむを得ない面もある。しかし、それぞれの土地や民族には言語、宗教や文化がある。これは決して否定してはならない。満州国に対して五族協和、王道楽土のために命を燃やしても、理想に目がくらみ現実を直視できないことがあってはならない。
 戦争の時代があり今私たちが生きている。そして私たちが新たな未来を築いていく。もちろん演劇は虚構であるけれども、虚構の中にある真実から学ぶことがある。それは文字だけではわからないあの時代の実感や思いなのかもしれない。「芽には芽を」ではなく「以徳報怨」という東洋の精神が―確かに現実に即して考えれば非常に難しいが―よりよい未来を切り拓く唯一の可能性になのだろう。
 真実という蘭の花が時代という流れのまにまに消えかけながらも、観客の心に花開くことを『李香蘭』は静かに祈っている。そんな作品だ。